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草虫こよみ xusa musi coyomi

:::::::::::::::くさ むし そら うみ つち ひかり

草暦 さようなら ありがとうございました。

2022年の草暦をお待ちいただいていたみなさま

草暦はさようならします。

一番の理由は、和紙屋さんである印刷屋さんができなくなったからです。
楮の入った紙を使って、折り本にもできるように断裁も特殊なことをしていただいていました。
和紙屋さんにもいろんな理由があるのでしょうが、社長さんは今後の人生を和紙の研究に邁進されるとのことです。


これまで草暦を見守ってお使いいただいてきたみなさま、
ありがとうございました。

これからも、草も虫もすべてのいのちがゆたかに、生きて死んで巡っていく道筋にそいたいと願っています。
オオカミの声をききながら。

ありがとうございました。

musi
草暦企画 石田紀佳

草暦は馬暦になってあたらしい形に生まれかわろうとしています。
詳細は矢谷左知子からお知らせいたします。

月と地球

  1. 2021/09/30(木) 10:02:35|
  2. 草暦

草暦の十三ヶ月 九月「葛の花 芳し」

9月

草暦 九月

「葛の花 芳し」


葛糸つくりの秋

この初秋はずっと葛の糸を洗っている

夏の終わりになって、ようやく葛の採集地に巡りあい、育ち具合を見計らいながら、少しずつ採取を続け、
持ち帰っては、草の室で一週間ほどの発酵、
そのあとの洗いはひたすらのもくもく仕事となる

発酵の合間には、次の採取に向う
ズルズルと長くて絡まった葛の蔓を解きながら、採り集める炎天下の作業はなかなかヘビー

お世話に行ってる馬場で旺盛に伸び盛る葛をいただく時は、
不要となる葉っぱ部分はお馬にあげる
かなり好きみたい
馬のそばで作業してると、はよくれ、と鼻でつきあげられるのがうれしい

そうして刈り取っては、始末し、ロープ状にまとめて鍋でぐつぐつ煮てから、茅の草の中で発酵、洗い、
その合間にまた採取、というローテーションがしばらく延々と続く

繊維になるまでは、発酵後のひたすらの水洗いの繰り返し
何度も水を替えて、粗洗いから仕上げ洗いまで、
指先の感度を高めながら洗い方を変えていく

日が暮れるまで、ひたすらの洗い作業のうちには、
身も心も洗い晒され、
疲れるというよりは、その循環の中に身体も巡りを合わせるよう、
すっかり自分の詰まりも消えて、清浄なここちとなる

葛の白は神々しい。

この「白」のことについては、長年の思いがある
またあらためて書いてみたい。

葛の花はもう咲いているだろうか
その色から連想されるとうりの香りがする花、
甘酸っぱいけど、爽やかだ

鬱蒼とした薮のなかで、葛の花の赤紫色は、ひと際天に伸びてまっすぐに立つ

今日は仲秋の名月


xusa
矢谷左知子

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  1. 2021/09/21(火) 14:36:47|
  2. 草暦

ー馬意識の彼方へー 名前のない新聞 連載記事 2021/9.10月号 「草文明の日々」

連載している「名前のない新聞」最新号の記事になります。

”馬意識”という造語をつくってみましたが、このことはまたこれからも深めていけたら、と想っています、



草文明の日々  その十七

名前のない新聞2021910
名前のない新聞 9.10月号 隔月発刊



馬意識の彼方へ

矢谷左知子



オリンピックは観ることもなく、いつのまにか終わっていたという感じだが、
この数年の馬とのご縁から、馬術競技というものに今回初めて目を向けることとなった。
まずもって、競技の馬の調達はどうするの?という疑問から始まり、各選手はそれぞれの自馬を開催地まで運んでくるのがわかり、
それはまあ当然のこと、でも素人からするとそんなことまでしなくても、という感覚が正直なところで、
その時点で、もう私としてはなんだかダメな世界となった。

今回は世界から330頭もの馬が飛行機で空を飛んではるばる日本にやってきたのだそうだ。
飛行機の貨物から馬が出てくる動画を見て、なんとも言えない気持ちになる。
自転車やサーフボードではないのだぞ、と思う私がおかしいのか。
当事者たちはそうは思わないのだろうか、と。

馬という生き物は、古来より耕作や運搬での使役動物の筆頭として、人間のために働き扶けてきてくれた。
なかでも特に大きな働きをしたのは戦争である。
これは他の生き物では代わることの出来ないこと、馬はそういう苛酷な宿命を背負っている特異な存在と言える。
平和を象徴し世界中で神馬として神の遣いでもある馬が、その真逆の死闘の場で傷つきながら人の為に命を落としてきた。

実際に馬と関わってみて、馬がいかに繊細な生き物で、ちょっとした物音も怖れ逃げ惑うものかを知り、
安心してやすらぐ環境をいかに愛しているかを知ると、その運命がやるせない。

私が今ご縁のある南の島の馬たちも琉球王朝時代、モンゴルとの戦いのために幾千もが明国に輸出されていた。
有史以来何千年もの間、そんなやさしい馬たちが戦争に駆り出されてきたことを思う度に、胸が痛くなるのだが、
今回馬術競技をざっと見ただけで同じくいたたまれず、早々にリタイアしてしまった。

馬はその脚を一本でも故障すれば命取りとなる。
私自身、敬愛する仲間であった馬を後ろ脚の骨折で失っている。
たった一本足を折ったくらいでなぜその命を助けることができないのか、無念でならない。
でもそこが他の生き物と決定的に違う造りをした馬の不条理なのである。

それがわかっていてなお、障害という競技は、馬が数々に仕掛けられた障害物を跳んで競わせることをするのだ。
もちろん人と馬とのやりとりの一つの完成を目指すのは理解できるが、
一瞬のミスでその馬は確実に再起不能となり死に直結する、
そんな危ういことをなぜわざわざ世界中で?というのが素直な気持ちであり、
こんなことを許してはいけないとまで思っていた矢先、案の定スイスの馬が障害の着地で失敗し脚を骨折、
その日のうちに殺処分という悲しいニュースが飛び込んできた。

はるばる冷涼なスイスから飛行機に乗せられ、長旅のあとの酷暑の日本は苦しかっただろう。
馬にとっては失敗すればそこまでの命、このような競技にいったいなんの意味があるのだろうかと思う。
競馬もしかり。
引退馬や、脚を折った現役馬は殺処分になるのだが、それ以前に残酷な現実があることは知られていない。
競走馬の世界では毎年7000頭以上の仔馬を生産し、戦士として生き残るのはごく一握り、
そのほとんどの仔馬は処分されるのが実際だと聞く。
毎年それだけの数の仔馬が生まれてはすぐに命を終える。
累々の馬の屍の上に成り立っているのが競馬という産業である。

さて、最後になったが、ここからが本題。
このような馬をめぐる現状に憤り、馬術も競馬も廃止したい、など息まいてしまう一方で、
実は馬の通訳さんから馬たちの気持ちを聴く機会があり、それ以来私の中では大きな命題が出来てしまった。
すなわち
馬たちはもちろん悲しい、でも我が身や群れに起こるすべてを受け入れ、命をかけて全うしている。
自分に乗る人間との約束のためだけに恐ろしい戦場を駆け抜け、競走馬として走る。
そして人間のことを思いやっている、自分たちは大丈夫です、あなたたちはどうですか、と。
ただ、それだけ。

南の島の悲惨な境遇の馬たちもしかり。
馬のことを思って憂い怒り悲嘆にくれる人間のことを気づかっている、と。
それを聴かされてからは、馬からは人知を超えた遥かなる地平を見せてもらったと思っている。

もしかしたら馬にとっては人と関わるという諦めを受け入れた時に、
それが戦争だろうと例えばホースセラピーだろうと、そこには差はないのかもしれない。

ではひとはどう関わっていくのか、
生きもの達との共生とは、それはいったいどういうことなのか、ずっと考えている。
答えは出ない。
自分の矮小な意識レベルを何段階もこえた馬意識に導いてもらいながら、まだまだまったく馬には追いつけないでいる。
でもそこが私の、心満ち、ざわめく本題である。
  1. 2021/09/13(月) 21:07:07|