これは恋噺なのか、自然環境なのか、カテゴライズは微妙だけど、草虫恋噺にいれて書いてみよう。
(まあ、どちらも同じといえば同じですが、分類というのは、どの棚にしまったほうが取り出しやすいとか見やすいとか共有しやすいってことなんだね)
さて、
「結婚って社会制度的な結婚と、野性としての結婚があって、
それがこんがらがって、面倒なことになっている人が多い」
みたいなお話を、某誌編集長Mとしました。
さすがにみれま! 明解にことの分類をされるなあと、感心すると同時に、
ただいま目下更年期衝動中でいろいろ感じているのりまとしては、
まわりに妙齢の男女が多いことだし、
つがい活動についてブログに書いてみようかなと思いました。
(エクスキューズが多いねえ。。。これをやめてすぱっと書くとか言うとかもしてみたい!)
相手がいない、子づくりができない、さわってもらえなくて、
さびしいっていうのは、
ある意味、深刻でもあるけど、
ある意味、勘違いでもある。
そんなたぐいのさびしい悩みは、社会通念的強迫観念であることがしばしば、ではないかしら。
もちろん、つがいたい、という野性(本能)の欲求はあるにしても、
それは一色でも、一途なものではなくて、
多様であり、ひとりの人の中でも時によって変化する。
かくいう私も、社会的と野性的がまじりあった悩みにおそわれたりもします。
話は飛躍するかもしれないけれど、
つがい相手がいない人が増えている、というのは、実は本能的なことかもしれないとも思います。
人類が急激に増えている地球上で、
その増加に歯止めをかけようとする直感みたいなものが働くことだってあるんじゃないかなあ。
(日本人のDNAを残したい、とかいうのはまったく本能ではない、これはいいきれる)
だから、「子供が欲しい」っていうのと、
いらないというまではいかなくても、「子供をつくるほうにいかない」、っていうのは、
どちらもとても自然なことなんだと思う。
欲しいのにできない、ということそのもので、苦しむなら、
もっと生き物を、世界を、宇宙を、真剣に、見渡すほうにエネルギーを使ったらどうでしょうか。
「真剣」というのが重要で、
「生き物は生まれてきた以上、自分の遺伝子を云々。。」というのはとても危ないものいいです。
遺伝子とかDNAという単語を比喩的文学的に使っているのかもしれないけれど、
こういう生物学的に正当なようでいて、まったくエセ生物学的ないいまわしは、あさはかであぶない(のだと、自分にもいましめています)。
「真剣」というのは、
何にも毒されていない、バイアスがかからない感性で、大宇宙小宇宙、この全存在をとらえるか
(これはなかなかできないです、いま日本語で書いている時点でもうバイアスがかかっているし)、
ガセネタにふりまわされず、こつこつと情報を消化して知識に昇華するか、ということだと思う。
いずれにしても天然自然と直にわたりあうことは必須ですよね。
私自身もまったくの途上ではありますが、あるていどこの肉体のなりたちを、生命誌などから教えてもらうと、腑に落ちることがあります。
化学生物学はすごくありがたい学問ですね。本来はピュアなアートです。
飛躍するようですが、
たとえば、大自然との交合ということだって真実でもあるし(樹や水、風との交信とか)、
結婚生活をしていて、子づくりにつながるような交合がないとしても、
ともにいるだけで交合している、という場合もあるのです。
逆に、肉体としていても、していないというほうが悲しいかも。。。
ああ、だから相手はいらない、といいたいわけではないですよ。
この世に存在する、イメージできる、有形無形の相手がいるってことです。
悦びってなんでしょう。
プラスマイナス、陰陽、サヌキアワ、オスメス、は、種なんて超えるんじゃないかしら。

ご満悦!
musi
- 2014/04/30(水) 08:56:42|
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